ピアノの穏やかな旋律に、ニューヨークの地下鉄や街角の映像が重なります。2022年7月、24歳のエンジニア、ザイド・カーンさんが投稿した17秒のTikTok動画です。仕事はあなたの人生ではない。あなたの価値は、こなした労働の量では決まらない。語りはそれだけでしたが、動画は世界中で再生され、Quiet Quittingという言葉を押し上げました。
日本で静かな退職と訳されたこの言葉は、どんな国の、どんな空気から生まれたのか。発祥地アメリカと、別の道を行く欧州のいまを追いかけます。
大退職時代|静かな退職の前に、辞める波が来ていた
静かな退職の話は、その1年前にアメリカで起きた大量離職から始めるのが筋です。2021年、アメリカでは働く人が記録的なペースで自ら会社を辞めました。アメリカ労働省の統計で、年間およそ4,700万人。組織心理学者のアンソニー・クロッツさんはこの現象を大退職時代、Great Resignationと名付けました。
引き金はパンデミックです。在宅勤務で通勤が消え、家族と過ごす時間が増え、この仕事は人生を懸けるに値するのかと立ち止まる時間が生まれました。人手不足で賃金が上がり、辞めた人から順に条件が良くなる循環も回り始めます。アメリカの若者にとって、辞めることは逃げではなく交渉の一手でした。
Quiet Quittingの誕生|辞められない人たちの答え
とはいえ、誰もが転職カードを切れるわけではありません。大退職の熱気の裏で、職場に残った人たちの間に広がったのがQuiet Quittingでした。義務は果たす、ただし仕事がすべてだという考え方からは降りる。冒頭の動画が言い当てたこの気分はハッシュタグとともに拡散し、米ギャラップ社は2022年、アメリカの労働者の少なくとも半数がこの状態にあたると推計しました。
言葉は数か月で国境を越え、日本にも定着します。日本での広がりは静かな退職の記事に譲り、発祥地の続きを追います。
派生語の連鎖|降り方に名前を付けるアメリカ
| 言葉 | 広まった時期 | 意味 |
|---|---|---|
| Great Resignation | 2021年 | 記録的な規模で人々が自発的に離職した大退職時代 |
| Quiet Quitting | 2022年 | 辞めずに、契約で決められた範囲だけ働く |
| Act Your Wage | 2022年 | 給料に見合う分だけ働こうという合言葉 |
| Bare Minimum Monday | 2023年 | 月曜は必要最低限の仕事に絞り、週明けの負荷を下げる |
| Lazy Girl Job | 2023年 | ほどよい負荷と十分な給料、柔軟さを兼ねた仕事を選ぶ |
Bare Minimum Mondayは起業家のマリサ・ジョー・メイズさんが、Lazy Girl Jobはインフルエンサーのガブリエル・ジャッジさんが、いずれもTikTokから広めました。共通するのは、力を抜くことへの罪悪感に名前を付けて解除する発想です。名前が付いた瞬間、個人のわがままに見えた行動は、世代で共有できる選択肢に変わります。
雇う側からも、昇進や機会を与えずに自主退職へ追い込むやり口を指すQuiet Firingという返し言葉が生まれました。労使が言葉で応酬し合う光景そのものが、働き方を交渉事として扱うアメリカの文化を映しています。
欧州の現在地|言葉ではなく制度で実験する
同じ時期、欧州は個人の降り方ではなく、制度の作り替えに向かいました。象徴が週4日勤務の実験です。2022年にイギリスで行われた試験導入には61社、約2,900人が参加しました。給料を全額維持したまま労働時間を2割減らす世界最大規模の取り組みで、運営団体4 Day Week Globalなどの報告によると、終了後も92%にあたる56社が週4日を続けると答え、離職者は57%減り、売上はほぼ横ばいでした。
先行したアイスランドでは2015年から2019年にかけて公務員約2,500人が時短勤務を試し、生産性を保ったまま働く人の幸福度が大きく上がったと報告されています。ベルギーは2022年、給料を保ったまま週4日に圧縮して働ける申請権を法制化しました。
アメリカは個人が言葉を発明して降り方を共有し、欧州は制度を実験して働き方の器を作り替える。若者が抱く気分は世界共通でも、その気分への答え方は国によってまるで違います。
そしてBig Stayへ|輸入された言葉の続きを知る
発祥地アメリカでは、すでに次の局面が始まっています。景気の減速とともに転職市場は冷え、離職率はパンデミック前の水準まで戻りました。大退職ならぬ大残留、Big Stayと呼ばれる状況です。辞めるカードを切りにくくなったぶん、静かな退職はむしろ静かに深く続いていると指摘されています。
ここで効いてくるのが、言葉の土台にある労働市場の違いです。アメリカの静かな退職は、転職と賃金交渉という続きの選択肢とセットになった駆け引きでした。日本に上陸したとき、そのセットは一緒には届いていません。
単語は一晩で輸入できますが、転職市場と交渉文化は輸入できません。同じ静かな退職でも、次の一手を持つ人の交渉になるのか、次の一手を持たない人の防御になるのか。研究所では、この差こそ日本で議論すべき本題だと考えています。
だからこそ、海外発の言葉は生まれた国の文脈ごと知っておく価値があります。アメリカのZ世代が生きる雇用環境と日本のZ世代の仕事観は、似た言葉を話していても地続きではありません。海外のZ世代の動きを定点で追うことは、次に日本へ上陸する言葉を先回りして理解することでもあります。
若者研究所では、現役の学生研究員へのインタビューや海外トレンドの定点観測を通じて、Z世代の労働観や価値観の変化を企業の人事施策とマーケティングにつなげる支援をしています。若者リサーチのご依頼やお問い合わせはお気軽にどうぞ。
よくある質問
静かな退職はどこで生まれた言葉ですか?
2022年7月にアメリカの24歳のエンジニアがTikTokに投稿した動画がきっかけです。英語のQuiet Quittingを日本語に訳した輸入語で、辞めずに契約の範囲だけ働くという意味で世界に広まりました。
大退職時代とはどんな現象ですか?
2021年前後のアメリカで、働く人が記録的な規模で自発的に会社を辞めた現象です。アメリカ労働省の統計では2021年の離職は年間およそ4,700万人にのぼり、組織心理学者のアンソニー・クロッツさんがGreat Resignationと名付けました。
週4日勤務の実験はうまくいっているのですか?
2022年にイギリスで61社が参加した試験導入では、終了後も9割を超える企業が週4日勤務の継続を選びました。アイスランドの公務員実験でも生産性を保ったまま働く人の幸福度が上がったと報告され、ベルギーでは週4日に圧縮して働ける申請権が法制化されています。


